バレエは「イタリアで生まれ、フランスで育ち、ロシアで花開いた」のは分かったけど、日本ではいつ発展したの?
「イタリアで生まれ、フランスで育ち、ロシアで花開いた」バレエが日本でも普及するきっかけのひとつがロシア革命。いまや約40万人のバレエ人口を擁するバレエ大国の黎明期を支えたロシア人のバレリーナは不思議なことに3人とも「パヴロワさん」なんです。血縁関係はまったくありません。
今回は、20世紀までのロシアバレエの歴史と日本バレエの黎明期が簡単にわかるようまとめてみました。
20世紀のロシアでの革命:モダンバレエとバレエリュスの成功
20世紀前半、総合芸術プロデューサー・ディアギレフがパリ公演の成功をきっかけに「バレエ・リュス」(ロシア・バレエ団)を結成して巡業を開始。後述のアンナ・パヴロワをはじめニジンスキー、カルサヴィナ、バランシンらが人気ダンサーとして活躍しました。
このバレエ・リュスは、モダンダンスの要素を積極的に取り入れた革新的な演目を多く生み出したことから、モダンバレエを礎を築いたとされています。
有名な作品のひとつである『薔薇の精』は、技巧派の男性(ニジンスキー)が中性的な薔薇の妖精を演じるという何とも不思議な魅力を放つ作品で、いまでも世界中のバレエ団で上演されています。
1917年のロシア革命を機にロシアのダンサーたちが混乱の最中に世界各地に亡命。ロシア・バレエが世界に広まり、ついに東の果ての日本もバレエを知ることになります。バレエが他国に伝わるときは毎回何かしらの出来事が引き金になっていますね。
アンナ・パブロワ:日本でバレエ公演を主催し、バレエ普及に貢献
アンナ・パヴロワは、1890年にマリインスキー劇場で初演された『眠れる森の美女』を見て、バレエの道を志し、現在までも語り継がれる伝説のバレリーナまで上り詰めていています。プティパの項で説明した、『眠れる森の美女』の初演を見た少女がバレリーナになったんですね。
帝室バレエ学校(現・ワガノワバレエアカデミー)を卒業して、マリインスキー・バレエ入団したアンナは、「クラシックバレエの父」であるプティパに才能を認められて昇進し、5年目には『ジゼル』 での主演を務めて成功を収めています。
その後、『瀕死の白鳥』 と呼ばれる作品を踊り、これがアンナの十八番となりました。この時代になると、ついに当時の映像が見られるようになるので、アンナの『瀕死の白鳥』は映像を見てみてください。
1908年には、前述の「バレエ・リュス」に参加し、1911年からは自らのバレエ団である「パヴロワ・カンパニー」を率いて世界中を巡演してます。
1922年にはついに来日し、日本で初めて本格的なバレエ公演を全国で開催。バレエの存在など全く知らなかった国民にバレエを広く知らしめました。この時の観客には、川端康成、芥川龍之介など数多くの著名人がいます。
アンナ・パヴロワ(1881-1931)
帝政時代のサンクトペテルブルク生まれ。9歳のころに見た『眠れる森の美女』初演をきっかけに自らもダンサーを志す。帝室バレエ学校(現・ワガノワバレエアカデミー)卒業後、マリインスキー・バレエに入団し、最晩年のプティパにも認められる。「バレエ・リュス」の巡演に参加したあと、自らの「パヴロワ・カンパニー」を立ち上げ、日本を含む海外巡演を敢行した。
エリアナ・パヴロワ:日本で初めてのバレエ教室を開設
1919年、ロシア革命の混乱から逃れるために、母・妹とともに日本へ入国。日本でバレエを普及させる意図はなかったようですが、結果的に「日本バレエの母」と評される功績を残します。
アンナにより、日本国内のバレエ熱は急激に高まるものの、バレエを習える場所も先生も日本には存在していませんでした。エリアナは、ロシア時代にクラシックバレエの教育は受けていましたが、当時の日本人がバレエを知っているはずもないため、来日後は社交ダンスを教えていたようです。
前述のアンナ・パヴロワの来日公演で風向きが一気に変わります。バレエを学んでみたいという日本人が現れ始めたのです。そこで、1927年、鎌倉の七里ヶ浜に日本初のバレエ教室を開設しました。ここから日本バレエの黎明期を支えたダンサーたちが巣立っていきました。
こうした功績により、エリアナは「日本バレエの母」と評されます。私が最初に習ったバレエの先生は、すでに鬼籍に入られていますが、1930年代にエリアナから直接バレエを学んだお弟子さんでした。つまり、私も日本バレエの母の孫弟子ということになります。
(日本名:霧島エリ子)(1897-1941)(1907-1981)
エリアナ・パヴロワ帝政時代のチフリス(現ジョージア・トビリシ)生まれ。1919年、ロシア革命から逃れるため、母・妹と来日し、日本国内の舞台に出演する。1927年に鎌倉・七里ガ浜の地に日本初のバレエスクール「パヴロバ・バレエスクール」を開校。
オリガ・サファイア(パヴロワ):日本に正統派のバレエ理論を伝授
オリガ・サファイアは芸名で、本名はオリガ・パヴロワです。
オリガは、レニングラード・バレエ学校(現・ワガノワバレエアカデミー)を卒業するなど、本格的な正統派クラシックバレエ教育を受けたのち、地方巡演を行うバレエ団に就職し、駐ソ連大使館に勤めていた日本人外交官・清水威久と結婚しています。
1936年、宝塚歌劇団を創始した小林一三の推薦により、開設まもない日劇ダンシングチームのバレエ教師に就任しました。このとき、来日したオリガは正統派のバレエの理論とバレエ公演を上演するためのノウハウを日本に導入しています。
1950年代以降は自宅でバレエを教え続け、1981年にこの世を去りました。オリガはバレエを教えるだけでなく、後進のために3冊の著書を出版しています。これらは今でも多くのバレエを志す人々に多大な影響を与えています。
(本名:オリガ・パヴロワ、日本名:清水みどり)(1907-1981)
オリガ・サファイア帝政時代のサンクトペテルブルク生まれ。レニングラード・バレエ学校(現・ワガノワバレエアカデミー)などで研鑽を積む。駐ソ連大使館に勤めていた日本人外交官・清水威久と結婚し、1935年に来日。
まとめ
20世紀のロシア・バレエと日本バレエの黎明期を支えたロシア人のバレリーナ3人について、これまでまとめてきました。いまや40万人のバレエ人口を擁する日本にバレエをもたらした、たった3人のバレリーナは不思議なことに全員「パヴロワさん」なのです。
私が最初に習ったバレエの先生は、エリアナから直接バレエを学んだお弟子さんでしたから、私も40万人のうちの1人でありますが、実はエリアナの孫弟子ということになります。
このように考えていると、実はこの3人はとても身近な存在なのかもしれません。
今回は「三人のパヴロワ」を取り上げたため、ひとりひとりの説明が簡易になってしまいました。
もっともバレエ界に影響を与え、絶大な知名度がある「アンナ・パヴロワ」については、子供向けの伝記本もいくつかあります。
貧しい家の出でありながら、世界最高のバレリーナにまで上り詰めたアンナの波乱万丈な生涯についてぜひ学んでみてください。バレエといえば「白鳥」というイメージが一般人にも浸透しているのはおそらくこの方の影響でしょう。そう考えると感慨深いですね。
※参考文献等
<書籍>
・海野敏(2023年)『バレエの世界史 美を追求する舞踊の600年』中央公論新社
・村山久美子 (著), 阿部昇吉 (編集)(2023年)『深く知るロシア・バレエ史』
・渡辺 真弓(著)(2013年)『日本のバレエ―三人のパヴロワ』 新国立劇場情報センター
<WEBページ>
・「バレエ」(2023年11月7日 (火) 11:52 UTC版)日本語版Wikipedia
・「Ballet」( 7 October 2023, at 03:57 UTC版)英語版Wikipedia
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